若松コロニーとおけいさん。|lovely Lagoon Living
昨日の往復約500キロのお出掛けの先は・・・・
サクラメントのまたその先にある
エルドラド郡Gold hillと言う街。
なじぇにこんなに遠くまでお出掛けして来たのか?
って言いますと・・・・。
このGold Hillと
福島県の会津若松地方には密接な
関係があるからなのでございます。
実を言いますと我・大パパしゃんは
生まれも育ちも会津でごじゃいまして・・・
マミーも小さい頃から夏休みは殆ど
会津で過ごし、そして夏休みのスケッチは
決まって磐梯山に猪苗代湖。
偉人なら野口英世博士については
何度も記念館に足を運び、野口博士の偉人伝なんぞを
良く読んでいたほど・・・・会津は第二の故郷と呼んでも
良いくらい・・・会津地方とは切っても切れない縁があるのです。
(それでは昔話風にお話を始めます。)
その会津地方から今から140年前の1869年に
シュネルさんと言う家族と共にアメリカに単身渡った
少女がおりました。彼女の名前は『おけいさん』と言って
戊辰戦争の後の混乱の中、充分な生活もさせてあげれない
親御さんがアメリカに行ったらもっと恵まれた生活をさせて
もらえるのではと言う願いでシュネル家の子守として
アメリカへとその他数名の会津の人達と共に
ゴールドヒルに到着します。
<若松コロニーの人達が日本から持参したケヤキの苗木が
今ではこんなに立派になっています。想定樹齢140年だそうです。>
ゴールドヒルに到着したシュネル家は
購入した土地を『若松コロニー』として
日本から連れて来た農民の知恵を借りて
絹とお茶の栽培を始めました。
しかしながら、この若松コロニーの成功への道のりは
非常に厳しく・・・移住後わずか2年にして財政難となり
当時の土地所有者であったシュネル氏は資金調達の為と
言い残し会津から連れて来た人達を残して
この地を去ってしまいます。
どのようにquartleryの複利を計算しない
待てども、待てどもシュネル氏と家族は帰って来ませんでした。
その内、日本より移民した者達も少しずつコロニーを去って行く中
前述の『おけいさん』と『さくらい まつのすけ(漢字表示不明のためひらがな)』の
二人はひたすらシュネル氏を待っていたそうです。
若松コロニーが崩壊した後、身を寄せる場所を失くした二人を当時
快く受け入れたのが、コロニーの土地を郡より購入した
Veerkamp一家。
おけいさんとまつのすけは
Veerkamp家の農場で働いていたそうです。
そして・・・・
1871年のこと。
おけいさんが高熱の病で亡くなってしまうのです。
その時、おけいさんはまつのすけに・・・・
『もしも私が死んだら、遠い会津を夢見て
いつも眺めていたあの丘の上にある
会津から来たケヤキの幹の元に埋めてください。』
と頼んだそうです。
そして・・・
『おけいさん』としか知られていない
19歳の若さで亡くなった彼女のお墓は
今でもVeerkamp家の所有する雄大な土地の一角に
ひっそりと今でも守られているのです。
<1969年当時のカリフォルニア州知事だった故レーガン大統領が
この史跡の記念式典に参加したそうです。>
ちょっとお話が長くなってしまいましたが・・・・
この『おけいさんのお墓』がある広大な土地を相続されて
現在所有していらっしゃるのが前述のVeerkamp家の
ひ孫に当たるご兄弟3人の方々なのですが・・・・
この地はですね・・
去年の春にこの地の永久保存を目的として州への
売地を希望されている旨の記事と日本の関連団体(会津若松市長も含む)の
現地訪問の記事で大パパしゃんが非常に気になっていた場所なのです。
ただ・・・この場所は一般公開されていない
個人の所有地なので実際に行ってみても
お墓までは行けないのでは・・・と思って
今回直接・・・・現在の所有者であるPhil Veerkampさんと
コンタクトをとり、大パパしゃんが会津の出身で
自分の故郷をこよなく愛しており、おけいさんのお話では
世界のトップ10銀行
非常に心を打たれたとお伝えしたところ・・・・
快く私たちの週末の訪問に応じて下さったのです。
<最初はあまり興味を示さなかった長男と次男。でも直接
Phil Veerkamp氏よりお話を聞いて非常に興味を持った様子でした。>
当日待ち合わせをした場所は当時の若松コロニーの発祥の地である
Ranch House(ランチハウス)のある場所。
樹齢140年にもなる会津から来たケヤキの木の種を
『This is going to be a homework for you, your kids and your father!
(これは君と子供達と君のお父さんへの宿題だぞ!)』
と言ってジップバックにわざわざ集めて手渡してくださいました。
そして・・・・
おけいさんとまつのすけが最後に住んでいたとされる
Veerkamp家の住宅跡地(1951年に火事で焼失)に
車で案内してくれた後に・・・・
若松コロニー百周年を記念して建立された
カリフォルニア州の史跡記念碑がある
小学校の裏に案内してくださいました。
<この丘の上からもう二度とは帰れぬ故郷を思い描いていたと
思うと、心の奥がきゅーんとします。>
史跡記念碑の後ろの柵の鍵をPhilが外してくれて
念願の場所へと進みます。(上の画像は先頭よりPhil,大パパしゃん
長男・次男です。)
<あかべこ・・・・同じ事を考える人っていたんですね。>
緩やかに一見みえる急な丘を上りきったところの
ケヤキの木の下におけいさんのお墓はありました。
17歳と言う若さでアメリカに初の日本人移民として
来て・・・・・
19歳と言う若さでアメリカの地で亡くなった初の日本人移民の
おけいさん。
どんなに会津に帰りたかったか・・・・
親御さんに会いたかったか・・・・
と思った時に
『そうだ!あかべこを持って行ってあげる。』
と独りよがりですが・・・
ひらめいたのです。
あかべこは会津地方の民芸品なのですが・・・
そして・・・現地に行って
もう既に二個のあかべこさんが
おけいさんのお墓にお供えされてるのを見て
非常に・・・・・不思議な気持ちになりました。
持参した菊の鉢植えのお花と
どのように現金預金が動作しない
和菓子・・・・
そして・・・
大パパしゃんが墓石の上から
お水を注いで・・・・・
三匹も一緒に
おけいさんにのんのん(拝むの意)を
してきました。
アメリカで生まれ育っている長男と次男とむしゅめ。
長男と次男がスクールでゴールドラッシュの事を
習って来る度に
『Do we have any relationship to this history event?
(この歴史的な事に親戚とかって関わってるの?)』
と良く聞かれました。
もちろん、おけいさんもまつのすけも血縁関係はないけど・・・・
会津をこよなく愛して
会津の地を恋しく思っていた部分では
充分コネクションがあると思うマミー。
だから・・・・
長男と次男は今回の訪問で
アメリカ初の日本人移民は会津の人だったと言う
事実は彼らの脳みそのしわにきっちり刻まれた
はずです。
アメリカでその昔・・・
とっても辛い思いをして頑張った日本人の
志半ばの偉業を今でも大切に思って
永久保存への働き掛けにご尽力されてる
Philさんの熱意にも日本人として感謝せずには
いれませんでした。
ただ・・・この広大な土地(約272エーカー)を維持するのは
たいへんな事で・・・国立公園的な形で永久保存出来る様に
州からの購入を働き掛けるのは非常に困難なのだそう。
数団体による寄付金活動でも金額的には
とってもとっても実現するには時間が掛かってしまいそうと
お話してくださいました。
アメリカ国内にある日本人福島県人会でも
募金活動などで寄付を募っているそうですが・・・
現実は非常に厳しいのだそうです。
<おけいさん、久しぶりのお茶菓子・・・ゆっくり食べてね。>
今回、初対面にも関わらず
大パパしゃんのリクエストを快く聞いて下さって
そして・・・・当時の若松コロニーの歴史をとっても
大切に守り抜きながら伝える努力を惜しまない
アメリカ人であるPhilさんにとっても感謝の気持ちで
一杯になりました。
初の日本人移民であった会津の人達、そしておけいさん。
当時の人達の努力や辛さ・・・そして悲しみは
誰かが語り継いでいかなくてはならないと
Philさんはお話して下さいました。
全く同感です。
往復500キロに渡る
約140年前に起こった日本人・会津人と
密接な場所の訪問。
Philさんと言うとっても
素敵な人との出会い。
とっても感慨深い体験でした。
大パパしゃんと私と三匹の
気持ち・・・・
おけいさんに届いてたら嬉しいです。
<関連資料>
Wakamatsu Tea and Silk Farm Colony at Gold Hill, California
Tea and history サクラメント ビー新聞社記事
在サンフランシスコ日本総領事館 ゴールドヒル・会津若松プロジェクト
American River Conservancy Wakamatsu Colony募金ページ
追;会津若松コロニーについての更に詳しい資料・情報についてもこれから
私なりに調べてみようと思っておりますが・・・本日の記事で誤記などがございましたら
ご一報下さると嬉しいです。(Philさんとのお話でも奥が深い事を痛感いたしましたので・・・)
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